正義論は可能か

正義に対する嫌悪の原因を考察し、そもそも正義論を展開すること事態が可能であるかを検討する。
立場は三つ。「諦観的平和主義」「階級利害還元論」「相対主義」である。

第一に、「諦観的平和主義」。
これは、過去、正義の名の下に抗争が繰り返されたことから、正義は「平和」を妨げるものである、という発想に由来する。
しかし、そもそも「正義より平和を」のこの思想は、不正に対する予防線がまったく存在せず(仮に不正に対する対抗手段をとるならば、結局特定の「正義原理」に依存することになる)、またそもそもなぜ正義より「平和」を選択しなければならないかの理由付けは示されていない。

第二に、「階級利害還元論」。マルクスに代表されるこの主張は、そもそも、「正義はブルジョアイデオロギーに過ぎない」という「発見の文脈」の議論に終始しており、理由付けを一切していない点で「発生論的誤謬」を内包する。

第三に、「相対主義」、ここでは、メタ価値相対主義(規範的相対主義とは異なる)のなかでの「価値相対主義」。これは、一時期「規範的正義論」を不可能にした難敵であるので、詳細な検討が必要となる。

まず、はじめの論拠として提示されるのは「確証不可能性」である。これは、「経験的に確証不可能な命題は真でも偽でもなく端的に無意味である」という論理実証主義者の経験主義的意味基準の一ヴァージョンである。これに対する反論は二通りあり、判断が確証可能であることを示すか、それとも確証可能性テーゼが間違いであるかを示すことであるが、著者は後者を選択する。そもそも、相対主義者の見解を採用すると各人が持つ価値は、逆説的にも(各々がそれを抱いているという理由のみによって)「絶対的」なものになってしまい、逆に不寛容の要素が発生する。加えて、確証可能性テーゼ自体の正当性はどこにも存在しない。

次に、「方法二元論からの議論」が挙げられる。このテーゼは「〈である〉‐判断(事実判断)のみからなる前提から当為判断(価値判断)は論理的に演繹できない」というもので、ここでは「認識」と「意志」との対応関係は議論にならない(後者の問題は最後の論拠で示される)。この「方法二元論」を論理的につきつめていくと「価値相対主義」にいきつく、というのが専らの議論であるが、これは不正確である。

なぜなら、G.E. ムーアの「直覚主義」のごとく、「方法二元論」にコミットしながら「価値相対主義」を採用しない立場も考えられるから。この「価値相対主義」は、「方法二元論」に加えて、「遡行的正当化理論(価値判断は上位の価値判断からの演繹のみにより正当化されるという見解)」と「反直証主義(自己正当化の不可能性)」という前提を示すことで初めて完成するものである。問題は「遡行的正当化理論」であるが、これは「確証不可能性」の議論に行き詰るのであり、同様の反論が可能である。