正義定式

「正義」の現在的位置づけと議論の整理を行う。

「正義とは何か」という問い(正義概念(concept of justice))と、「何が正義にかなっているか」という問い(正義原則(conception of justice))の区別が導入される必要がある。この区別は「正義の非対称性」を説明する際にも重要となってくる。

次に、各々の「正義原則」がコミットしている共通の「正義概念」とは何かが問われている。ローマ法たるユスティニアヌス法典の『法学提要』にある一節「正義とは各人に彼の権利を帰さんとする恒常的にして不断の意志なり(justitia est constans et perpetue voluntas jus suum cuique tribuendi)」がそれである。

このテーゼは、「等しきものは等しく」(以下、「正義定式」)の公式で表現される「形式的正義」を表現するものであり、無内容であると非難されることが多い。しかし、著者は、その無内容ゆえに「正義概念」になりうるのだと反論している。加えて、アリストテレス的な「匡正的正義」も検討されているが、これは上記の形式的正義に包含されるものである。

以上の前提を踏まえた上で、エゴイストの問題が検討可能となる。これは、「正義原則」に対する問題ではなく、より根源的な「正義概念」に関する問題であるといえる。

「等しきものは等しく」は二者の比較の際にその意義が発揮されるが、ここにいう「等しさ」とは類似性を意味し、個体の自己同一性を含まない。要するに、他の個体と共有することが不可能な特徴をもって正当化する論理、すなわちエゴイズムを正義定式は許容しないという普遍主義的要請がその主たる内容である、といえる。

では、エゴイズムとは何か。我々は、これを「その個体がその個体であるがゆえ、その個体もしくはその個体と関係をもつ存在者のために他者とは異なる特別な取り扱いを要求する立場」を指す、と定義できる。従って、エゴイズムは「利己主義」のみならず「排他的利他主義」をも内包する点に注意が必要である。
ここから、「正義定式」は完全に空虚な定式ではなく、エゴイズムを排斥する作用を持つのである。

正義論は可能か

正義に対する嫌悪の原因を考察し、そもそも正義論を展開すること事態が可能であるかを検討する。
立場は三つ。「諦観的平和主義」「階級利害還元論」「相対主義」である。

第一に、「諦観的平和主義」。
これは、過去、正義の名の下に抗争が繰り返されたことから、正義は「平和」を妨げるものである、という発想に由来する。
しかし、そもそも「正義より平和を」のこの思想は、不正に対する予防線がまったく存在せず(仮に不正に対する対抗手段をとるならば、結局特定の「正義原理」に依存することになる)、またそもそもなぜ正義より「平和」を選択しなければならないかの理由付けは示されていない。

第二に、「階級利害還元論」。マルクスに代表されるこの主張は、そもそも、「正義はブルジョアイデオロギーに過ぎない」という「発見の文脈」の議論に終始しており、理由付けを一切していない点で「発生論的誤謬」を内包する。

第三に、「相対主義」、ここでは、メタ価値相対主義(規範的相対主義とは異なる)のなかでの「価値相対主義」。これは、一時期「規範的正義論」を不可能にした難敵であるので、詳細な検討が必要となる。

まず、はじめの論拠として提示されるのは「確証不可能性」である。これは、「経験的に確証不可能な命題は真でも偽でもなく端的に無意味である」という論理実証主義者の経験主義的意味基準の一ヴァージョンである。これに対する反論は二通りあり、判断が確証可能であることを示すか、それとも確証可能性テーゼが間違いであるかを示すことであるが、著者は後者を選択する。そもそも、相対主義者の見解を採用すると各人が持つ価値は、逆説的にも(各々がそれを抱いているという理由のみによって)「絶対的」なものになってしまい、逆に不寛容の要素が発生する。加えて、確証可能性テーゼ自体の正当性はどこにも存在しない。

次に、「方法二元論からの議論」が挙げられる。このテーゼは「〈である〉‐判断(事実判断)のみからなる前提から当為判断(価値判断)は論理的に演繹できない」というもので、ここでは「認識」と「意志」との対応関係は議論にならない(後者の問題は最後の論拠で示される)。この「方法二元論」を論理的につきつめていくと「価値相対主義」にいきつく、というのが専らの議論であるが、これは不正確である。

なぜなら、G.E. ムーアの「直覚主義」のごとく、「方法二元論」にコミットしながら「価値相対主義」を採用しない立場も考えられるから。この「価値相対主義」は、「方法二元論」に加えて、「遡行的正当化理論(価値判断は上位の価値判断からの演繹のみにより正当化されるという見解)」と「反直証主義(自己正当化の不可能性)」という前提を示すことで初めて完成するものである。問題は「遡行的正当化理論」であるが、これは「確証不可能性」の議論に行き詰るのであり、同様の反論が可能である。

リサ・ランドールはわかりやすいのか

啓蒙のための尽力という意味において、この人が、外すべきではない地位にあることは、私も理解している。

しかしながら、彼女の『ワープする宇宙』は、実際、解かり易いかと問われたら、答えはNoとならざるを得ない。

物理学が新たな地平を拓こうとしている胎動を感じることは可能だ。しかし、物理学は、数式が何よりも雄弁に挙動を感じさせるように記述され、直観的に不可知なものを理解させる剛毅を備えていたと門外漢は勝手に思うのだ。

よって、数式も実験結果も捨象するランドール氏の著作に素直に頷けないのが、浅学菲才の哀しいところだ。

ジョージ・ケナンに思う

ジョージ・ケナンプラグマティズムを旨とする外交官であった。国務長官に就任したコリン・パウエルがジョージ・ケナンにアドヴァイス・レターを依頼したところ定期的に送って頂いたものです、とケナン100歳の壇上パーティで嬉しそうに語っていた事は忘れはせぬ。

ケナンは所謂ネオコンを嫌悪したが、ある種の理想主義的啓蒙を機軸とした外交・軍事行動主義者と彼のようなリアリストが相容れない存在であることは確かであろう。

畏れながらその誕生パーティには参加したかったものだ。今は安らかにお眠り下さい。

民意はだれのものか

第二次安倍内閣の組閣が明日発表される様子であるが「民意を反映し」と云うクリシェは一体何を意味するのか。無論、ある種の投票行動分析で、それらしきことを提示してみせることは可能であろうが、アローの不可能性定理(一般可能性定理)が示すとおり「民意は反映されうるのか?」は大問題であり、軽々に用いるべきものではないように思われる。投票率向上の方法論に関しては、機会を改めて述べたい。

サルコジ・フランス

どちらにしても微妙な舵取りを迫られた事は言を俟たないが、サルコジフランス共和国も蜜月と多難を予感させる門出となっている。しかし、ユーロ圏が磐石である限り、それは来る日本の参院選後の騒動とは比べ物にならぬ程度の内輪の問題と云えそうである。